つきいち新聞

The Tsuki-ichi Shimbun

第6号 待つということ

第5号の話題から、おまけ記事書きます。

 

鷲田清一『待つということ』

この本が書かれた頃よりも、世の中のスピードはさらに速くなっているでしょう。以前は待てていたことも、今はもう待てません。待たずに切り捨てられた時間は溜まりに溜まって、現代社会のひずみとなって噴出しているのではないでしょうか。〈待つ〉ってどんな気持ちだったか、今一度思い出してみませんか?待つことの大切さも苦しみも鷲田先生は分かってくれています。

 

ひとむかし前の『待つということ』が、鮮やかに蘇る動画がこちら。

 


【CM 1988-92】JR東海 X'MAS EXPRESS 60秒×5

 

僕はこの時代を知らない。けれど、どこかこの時代が羨ましい気もする。

 

この頃といえばバブル絶頂期。時代の華々しさに惹かれているのだろうか・・・たぶん否。

 

おそらく、〈待つ〉ことのなかにある「感情の振れ幅の大きさ」に、憧れているのだとと思う。

 

相手は

来るのか来ないのか、

いつ来るのか、

いま相手はどんな気持ちなのか、

なんと言葉をかけようか、

 

いろんなことを想像し、さまざまに思いを巡らし、ドキドキする。不安になる。寂しくなる。一喜一憂している自分が情けなく思えてきたりする。

 

そんな感情の動きがあるから、感情の振れ幅が大きいから、日常は面白いのだと思う。

 

現代なら

 

「名古屋なう。18:52東京駅着予定」

「りょ。」

 

の、たった一往復のやり取りで終わってしまうのだから。

 

〈待つ〉が日常から消えて久しい。

 

 

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

 

 

第5号 リアル書店ってすごい!

おととい、ジュンク堂書店池袋本店(http://goo.gl/maps/EZfpFrzxwe62)に立ち寄った。別段、お目当ての本があったわけではないけれど、いま池袋までの定期を持っているので散歩がてら行ってみた。

 

たしか、5階だったと思う。「店員おすすめコーナー」なるものが一角にあった。

 

そのコーナーの「書籍紹介ポップ」がほんとうに凄くて、感動して唸ってしまった。

思わずスマホのカメラでパシャパシャしていた。(これって写真にとっていいのかわからないけれどほんとうに素晴らしかったので)

 

とても感動したので、その晩、文字に書き起こしました。そして何人かの友だちにも共有しました(またアツっぽいなーと思われたかもしれませんが、人に伝えたほうが知識は定着すると思っています)。

 

リアル書店の店員さんたちの情熱と仕事に対する矜持に、胸熱です。(書店員さんの名前はふせます)

 

林京子『希望』

被爆後を生きた
作家の目線
私たちが歴史として
知ることはこんなにも
苦しみ 悲しみ 怒りに
満ちた人の営みと希望がある
そして私もその一部である
3F 文芸担当 ◯◯
 
人は社会の外では生きてゆけない
ひとつの考えを持った人間が
孤独によって易きに流れ
吸収される過程を描く
その先は安寧とも思えないのだが
一瞬の思考停止と脱力は
今の私たちにも覚えがないか
3F 文芸担当 ◯◯
 
鷲田清一『待つということ』
この本が書かれた頃よりも、世の中のスピードはさらに速くなっているでしょう。以前は待てていたことも、今はもう待てません。待たずに切り捨てられた時間は溜まりに溜まって、現代社会のひずみとなって噴出しているのではないでしょうか。〈待つ〉ってどんな気持ちだったか、今一度思い出してみませんか?待つことの大切さも苦しみも鷲田先生は分かってくれています。
4F 人文書担当 ◯◯
 
岸政彦『街の人生』
この本に出てくる人々が現在の日本を表すというよりも、この本を読んで得られる他者への視線こそが現在の日本に必要なものなのではないかと思い選びました。ただひたすらに、誰の解釈も挟まれない人々の語りを読むだけで、ものすごく多くのものを得たような気持ちになります。全ての人に同じだけの熱量を持った人生がある。ということが体感できる一冊です。
4F 人文書担当 ◯◯
 
松林薫『「ポスト真実」時代のネットニュースの読み方』
~ネット情報を鵜呑みにする質の低い人工知能になる事なかれ~
ネットメディアは既存メディアと違い、自分のほしい情報を選択的に取得できるという特徴があります。しかし自分に都合がいい情報ばかり集めていると盲目的になり、情報の真贋について無関心になりがちです。都合のいい情報にこそ穴がある。これが「ポスト真実」時代の教訓になりそうです。
5F 社会 ◯◯

 

 

だいぶ感動して触発されたので、近日中に「つきいち新聞」にも書評欄を設けたいと思います。

 

頑張ります!

 

 

第4号 因果関係に懐疑的になる

ここ数日、ほんとうに暑い。東京でも日中30度を超えるなど、真夏日が続いている。

 

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きのうは大手町で面接があった。背広で面接だったので汗が吹き出た。第一志望群の会社だったので何時になく緊張したが、なんとか力は出し切れたのではないかと振り返っている。

 

さて、私の日課の一つは、NHKニュースをじっくり観ることだ。

 

おはよう日本、正午のニュース、ニュース7、ニュースウォッチ9、クローズアップ現代プラス、ニュースチェック11、時論・公論、視点・論点

 

ここまでくるともうNHKオタクの部類に入ると思われる。東京アナウンス室所属のほとんどのアナウンサー・キャスターの名前を諳んじることができる。(ちなみに、尊敬しているのは武田真一アナウンサー。好きなのは桑子真帆アナウンサーと高瀬耕造アナウンサー。)

 

きのうも帰ってきて、ニュース7を観ていた。そうすると、「全国的に真夏日が続いている」というニュースのなかで、街行く人のインタビューが放送されていた。よくある絵なので想像に難くないだろう。

 

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(※イメージ)

 

ここで、ちょっと気になったインタビュー・コメントがあった。

 

「5月でここまで暑いと、夏本番(8月、9月)はどうなるのかしら」

「今年の夏の暑さは絶対ヤバい」

 

というインタビュー・コメントだ。

 

そのようにコメントしたい気持ちはよくわかるし、至極当然のことを言っているようにも思える。

 

だが気になったのは、彼らのなかで

 

5月現在平年より暑い→夏本番は平年より暑い

 

という式が疑いなく成り立っているなら、ちょっと考えものだなーと思ったからだ。

 

一般に A→B(AならばB) に表されるような関係を「因果関係」という。

 

原因→結果 の関係だと言い換えても良い。

 

さきほどの

 

5月現在平年より暑い→夏本番は平年より暑い

 

の何が問題かと言えば、反例が存在する(しかも簡単に例が思いつく)のに、あたかも因果関係があるようなバイアスに染まってしまっている感があるからである。つまり論理的に正しくないのにも関わらず、それに因果関係があるかのように錯覚してしまっているその状態が危険なのだ。

 

天気くらいの話であれば、その関係が因果関係であろうが相関関係であろうが大した問題には発展しないだろうが、例えば人間どうしの会話の中で、この因果関係のバイアスに取り憑かれているがゆえに、口論になってしまったり、相手の言い分に対して寛容になれなかったりするケースをよく目にする。因果関係や相関関係の考え方の枠組みさえしっていれば、そういう行き違いも随分減るんじゃないか、と思う。

 

ここで詳しい事例を出したほうが親切だとは思うけれど、今回はここまでにします。すいません。

 

この記事で「因果関係ってことば初めて聞いた」って人は、関連書が腐るほど出ているので書店で探してみるのもよいかもしれない。

 

最近ベストセラーになっているものもあるし↓

データ分析の力 因果関係に迫る思考法 (光文社新書)

データ分析の力 因果関係に迫る思考法 (光文社新書)

 

 

哲学(人生論っぽい哲学書ではなく、学術的なほう)の入門書なんかにもわかりやすい解説があると思う。

 

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

 
現代哲学キーワード (有斐閣双書キーワード)

現代哲学キーワード (有斐閣双書キーワード)

 

 

「因果関係」についての意味や周辺の議論に関してはコトバンクWikipediaなんかを参考にするのもいいだろう。

kotobank.jp

相関関係と因果関係 - Wikipedia

 

ただ、猛暑のニュースを観ただけでここまで考えてしまうのはそれもそれで生きづらいと思う。そこら辺のバランスは大事やと思います。

 

しかし、それでも強調したいのは

二つ以上の事象のあいだに成り立つ関係について論理的に考える癖

は、案外役に立つということです。

 

ぼくは

 

「具体において論理的に正しいか」

 

という自らへの問いかけは常にアタマの片隅にではなく、中心においています。

なぜなら、世の中で起きていることは具体の積み重ねであるからです。

 

因果関係や相関関係のほかにも、全体最適部分最適合成の誤謬など、何かを考える際に俎上に載せるべき考え方は山ほどあるので、僕も頑張って身に付けたいです。”思考は訓練によってしか身につかない”ということを肝に銘じつつ。

 

あすから東京は平年並みの気温になるそうです。それでは。

 

 

 

 

 

第3号 D.I.Y.の友人

シェアハウス暮らしも長くなった。2か月半ものあいだここ東京・板橋に居座っていることになる。

 

ひとことで言うと、シェアハウスは楽しい。

 

理由の一つが、価値観の異なるひとと朝から晩まで同じ時を過ごせることだ。

 

沖縄出身の男が1か月ほど前に入居してきた。

 

経済学部の4年生だが、ITの知識に精通していて、その知識の深さと広さに最初驚いた。

 

また、彼は「D.I.Y.精神」をもっている。

 

二段ベッドにフックを掛けて、棚を作ったり、テーブルや冷蔵庫の配置を変えて、家の中の動線を最適化したり。

 

とにかく動き回っている。目つきは大工そのもの。眼光炯々としている。

 

私はすっかり、このD.I.Y.精神を失っていたことに気づいた。

 

D.I.Y.=Do It Yourself 

 

自分の身のまわりのことは自分でやる。一見当たり前のようだが、現代日本においては驚くほど実践されていない。

 

食事は、すき家などのフランチャイズあるいはコンビニ弁当で済ませる。なにか日用品が足りなければAmazonでポチる。

 

自分たちは生活のすべてを「代金を支払いその対価としてサービスを得る主体」として演じきってしまっている。いわゆる経済主体としてしか存在し得なくなっている。

 

石田徹也の作品。

 

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わたしたちは、この絵さながら、車がガソリンスタンドで燃料を補給するように、牛丼を流し込み、おにぎりを流し込み、100円コーヒーで生きている。

 

工夫・改善・アレンジ・仮定・推測…。

 

狩猟採集民だった私たちは、過去の何十万年D.I.Y.で生きてきた。創造する営みは脈々と続いてきていた。ほんの少し前までは。

 

反対にガソリンスタンド・システムは構築されてからまだ何十年か、である。

 

沖縄の男から、たくさんのことを学んだ。

 

 

第2号 フィルターという盲点

5月の大型連休も開け、いよいよ就職活動は中盤戦といったところだろうか。

 

2か月間の東京就活を終え、現在は一時的に宮崎に帰ってきている。改めて宮崎の街を眺めると、この街は花が多いことに気づく。街路樹にも、歩道にも規則的に花が植えられ街を彩っている。東京から帰ってきた初日、心なしか花の香が漂っていたような。

 

心酔いしれる花の香をよそに(笑)ここのところなんだか不安要素が募ってきているような気がする。

 

OB訪問、テストセンターの勉強、最後のES執筆ラッシュ…など課題は山積みなのだが、どうも心ここにあらずといった感じで、ふわふわ、ふわふわ。。

 

このふわふわが言語化出来ない間は苦しい。何に対する不安なのかさえ、その対象がハッキリしない。

 

こんなときは、一人で考えてもしょうがない。賢い人の知恵を借りるしかない(悔しいけど)。とりあえず一冊の本を読んだ。

 

 

働くひとのためのキャリア・デザイン (PHP新書)

働くひとのためのキャリア・デザイン (PHP新書)

 

 

良書。それもきわめて。しかし、今回は主役としての登場は見送ってもらう。

 

今回紹介したいのは、こちら!

 

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

 

 

ちきりんさんの、『自分のアタマで考えよう』だ。

 

この本に、ビビッときた。就活の方法論に関する記述。

 

それは

  • とにかくいまの就活生は、情報を取るのに必死になりすぎている。
  • それゆえ、自分はどうしたいのか、どうありたいのか、何に興味があるのかという自分の内にある「フィルター」(心の取っ掛かり)の構築・点検が疎かになっている。
  • この「フィルター」がどうなっているのか、再検討すべき。

 

といった趣旨であった。(詳しく知りたい方は、ぜひちきりんさんの著を読んでみてください)

 

心のなかの不安要素の原因、対象が明瞭になっていくのがわかった。

 

ちきりんさんの指摘を踏まえ、自分のこれまでの就活を振り返ってみよう。

 

【筆者の就活】

地方 or 都会 → 都会でしょ。福岡行くくらいなら東京行っちゃおう。

やりたいことがよくわからない → 東京は情報で溢れてるし、合同説明会とか、人の話を聴いたりとか、会社説明会行っているうちに志望はある程度固まってくるでしょ。ほら、「就活は縁」とか「就活は運」とか「人生は必然の連続である」とか言うじゃない?

 

・・・・・・・・・・

おわかりいただけたと思う。どれほど筆者の考え方があまちゃんだったか!!

【反省】

  • 「東京は情報のメッカ!」「就活は情報戦!」の言葉を鵜呑みにしていたこと。→大事なのはその情報からどう取捨選択するか。ちきりんさん風に言えば、自分の「フィルター」(世界のどの部分に対して自分は面白がれる?どの部分の対して敏感?)に対して自覚的になることが重要。

 

 

まとめよう。

いわゆる「自己分析」ってリ◯ナビやマ◯ナビがいってるような小難しいことではなくて、

  1. 自分は何が得意か。(能力・才能についての自己イメージ)
  2. 自分はいったい何をやりたいのか(動機・欲求についての自己イメージ)
  3. どのようなことをやっている自分なら、意味を感じ、社会に役立っていると実感できるのか。(意味・価値についての自己イメージ)

 

そして、

 

  1. 自分ならではの強みはどこにあるのか。(知識と技能―knowing how)
  2. 自分があることをしたいとき、それをしたいのはなぜか。(アイデンティティ、信念、モチベーション―knowing why)
  3. 自分はこれまで誰とつながり、その関係をどのように生かしてきたか。(対人ネットワーク―knowing whom)

(引用:金井壽宏『働くひとのためのキャリア・デザイン』PHP新書、2002年、p.36、p.41)

 

これを深く自分に問うてみることだ。きわめてシンプル。だけど難しい。

 

そして、ほかの人がどのように思っているかではなく、自分が自分をどのように捉えているかが重要。他の人のモノサシはゴミ箱へぽい。

 

言われてみると身も蓋もない話だと思われる方も多いかもしれない。しかし、自己弁護すると、こんな当たり前のことに2か月間気が付かないほど、就活中は忙しいということだ。

 

忙しいというとあまりに陳腐なのでもう少し踏み込んでいうと、以下のようになる。

  • 情報過多すぎて情報のランク付け、優先順位付けが手に負えなくなる
  • 人と話す・交流する機会が多くなるため、何となくハイテンションのまま就活してしまう。インプット↔アウトプットの対比で考えると、圧倒的にインプットに偏りがち。アタマで考える作業がお留守になりがち、ということ。

 

最後に、思い出した言葉があるので、引用する。

 

Control your destiny, or someone else will.  

Jack Welch

 

突き詰めて言うと

「ほんとうに自分が何をやりたいのか」は人から教えてもらえる問いではないよね。自分で探すほかない。「その覚悟はあるのか」と問われているような気がする。 覚悟ないまま、無自覚のまま歳を重ねると、ジャック・ウェルチの言葉を借りれば「他律されちまうよ」ということか。

 

今回の記事はどちらか言うと、自分のアタマのなかの整理のため、という性格の強い記事になってしまった。

 

整理するには書くことが一番の特効薬かな。比喩的にいえば漢方薬っぽいけど。

 

書くことは考えることである。考えることは書くことである。

林修

 

 

 

 

第1号 スナック考現学

きょう、酒屋のバイト最終日を迎える。就活で3月から東京に滞在するため、これを機に辞めることになったのだ。

 

スーパーカブの荷台にビール瓶や霧島が入った袋を詰め、伝票を確認して配達先へ向かう。千鳥足で顔を赤らめた酔っぱらいの群衆をすり抜けて配達するのは、なかなかスリルがある。艶やかな衣装を纏ったキャバ女たちとエレベーターで乗り合わせることもあった。当初は目のやり場に困ったものだが、すっかり慣れてしまった。

 

配達先はというと、ほとんどがスナックだ。宮崎の繁華街「ニシタチ」には2000店が軒を連ねる。

 

配達先に到着すると、だいたい以下の流れを経る。

 

商品をお渡しする→代金をいただく→おつりをお渡しする→空き瓶を回収する

 

僕はわりと事務的に仕事をこなす。所詮はバイト、ただただお金のためだけに働いていた。

 

そんなある日、朝日新聞の記事から新たな視点を得た。

 

街のショーウィンドーの品物を歴史博物館の陳列品と同列に見るのである。 今和次郎   建築の研究者は、関東大震災で焦土と化した東京で、考古学ならぬ《考現学》の調査を始めた。バラックの建て方、洗濯物の干し方、労働者の野外での休み方、給仕の服装、台所の備品、駅の清掃法などをつぶさに調べ、図解した。民衆の暮らしがゼロからふたたびどのように立ち上がるのかを見ることで、生活に真に必要なものが何かを知るために。「モデルノロヂオ」から。(鷲田清一「折々のことば」(462)朝日新聞

 

商品の焼酎を抱えて店に入ると、演歌を伸びやかに歌うおんちゃん、手拍子をするママ。いつも当たり前に見ていたこの光景を考現学的視点から見てみると、〈いま〉この空間が、おそらく二度と地上に現れないことを知る。集う客、ママ、歌、そして私。この空間すべてが刹那的である。

 

演歌を歌う若者はほとんどない。30年後、スナック街はJ-POPで溢れかえるのだろうか。演歌自体、ホブズボウムのいう「創られた伝統」の一形態に過ぎないが、ここ20-30年で忘れ去られてしまうのは、どこか寂しい気がするのである。

 

 

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関連本紹介

考現学入門 (ちくま文庫)

考現学入門 (ちくま文庫)

 

 

 

創られた伝統 (文化人類学叢書)

創られた伝統 (文化人類学叢書)

 

 

 

創られた「日本の心」神話?「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史? (光文社新書)

創られた「日本の心」神話?「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史? (光文社新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創刊準備号 ハンズフリー論考

スマートフォンとマイク付きイヤホン(たいていはBluetooth接続されている)を連動させる「ハンズフリー」で電話している人を目にする機会が増えた。とはいえ、人びとのあいだで「ああ、あの人は電話をしているのだな」という認識が広まったのは、少なくともここ数年のことだろう。

 

ハンズフリーの人」に出くわす場面は日常となったが、僕はいまだに戸惑いというか、ぎこちなさを覚える。時折ニヤニヤしたり、首を振ったりするから一層気味が悪い。両手が開放されることにより、作業効率の向上が見込まれることは頭で理解できるが、それでもなお感じるこのぎこちなさの理由はどこにあるのだろうか。

 

中高生時代、週初めの月曜日に全校集会が開かれていた。みんな行儀よくステージの方に向かって体育座りをして、校長先生のお話や生徒会からの報告を、まだ眠い目をこすりながら聴いていた。でもこれって、よく考えたらすごく変なことだ。人は360度、全方位からの音を聴くことができるのだから、別に横を向こうが後ろを向こうが校長先生のお話は理解できるはずである。「しきたりだから」「先生に怒られるから」と片付けてしまえば簡単だが、どうしてどうして、僕らは当たり前のように前を向いて話を聴いてしまう。

 

これは全校集会に限らない。食卓を囲むときだってそうだ。「エネルギーを補給する」というご飯の機能的側面に限定すれば、食べ物を口に放り込めばそれでよいはずだ。仮に食料が足りてない状況にあれば、他者と向き合うことは食物を奪われる危険を犯すことにもなる。それなのに、僕らは背中合わせではなく、わざわざ向き合って、食卓を囲んでいる。

 

この二つの例から分かることは、人は対面するコミュニケーションを基本としてきたということだ。両者が向かい合って、話を聴き、ご飯を食べる。当たり前のようだが、僕たちは効率性を犠牲にしてまで対面コミュニケーションを選び取ってきたのである。

 

携帯電話を耳にあてがって電話をする人を目にする時、僕らは携帯電話を持つという彼のしぐさから、会話している相手を想起し、頭の中で対面させている。一方ハンズフリーの人たちは、耳にUSBメモリみたいな物体を差し込んでいるだけで、周りから見ると何をしているのか判別できない。それだのに、ときどきニヤニヤしたり、相槌を打っていたりするから、気味が悪いのだ。それは、背中合わせで食卓を囲むときの違和感と僕の中では一致しているのである。