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つきいち新聞

The Tsuki-ichi Shimbun

第1号 スナック考現学

第1号 スナック考現学

 

きょう、酒屋のバイト最終日を迎える。就活で3月から東京に滞在するため、これを機に辞めることになったのだ。

 

スーパーカブの荷台にビール瓶や霧島が入った袋を詰め、伝票を確認して配達先へ向かう。千鳥足で顔を赤らめた酔っぱらいの群衆をすり抜けて配達するのは、なかなかスリルがある。艶やかな衣装を纏ったキャバ女たちとエレベーターで乗り合わせることもあった。当初は目のやり場に困ったものだが、すっかり慣れてしまった。

 

配達先はというと、ほとんどがスナックだ。宮崎の繁華街「ニシタチ」には2000店が軒を連ねる。

 

配達先に到着すると、だいたい以下の流れを経る。

 

商品をお渡しする→代金をいただく→おつりをお渡しする→空き瓶を回収する

 

僕はわりと事務的に仕事をこなす。所詮はバイト、ただただお金のためだけに働いていた。

 

そんなある日、朝日新聞の記事から新たな視点を得た。

 

街のショーウィンドーの品物を歴史博物館の陳列品と同列に見るのである。 今和次郎   建築の研究者は、関東大震災で焦土と化した東京で、考古学ならぬ《考現学》の調査を始めた。バラックの建て方、洗濯物の干し方、労働者の野外での休み方、給仕の服装、台所の備品、駅の清掃法などをつぶさに調べ、図解した。民衆の暮らしがゼロからふたたびどのように立ち上がるのかを見ることで、生活に真に必要なものが何かを知るために。「モデルノロヂオ」から。(鷲田清一「折々のことば」(462)朝日新聞

 

商品の焼酎を抱えて店に入ると、演歌を伸びやかに歌うおんちゃん、手拍子をするママ。いつも当たり前に見ていたこの光景を考現学的視点から見てみると、〈いま〉この空間が、おそらく二度と地上に現れないことを知る。集う客、ママ、歌、そして私。この空間すべてが刹那的である。

 

演歌を歌う若者はほとんどない。30年後、スナック街はJ-POPで溢れかえるのだろうか。演歌自体、ホブズボウムのいう「創られた伝統」の一形態に過ぎないが、ここ20-30年で忘れ去られてしまうのは、どこか寂しい気がするのである。

 

 

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関連本紹介

考現学入門 (ちくま文庫)

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創られた伝統 (文化人類学叢書)

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創られた「日本の心」神話?「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史? (光文社新書)

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創刊準備号 ハンズフリー論考

ハンズフリー論考

 

スマートフォンとマイク付きイヤホン(たいていはBluetooth接続されている)を連動させる「ハンズフリー」で電話している人を目にする機会が増えた。とはいえ、人びとのあいだで「ああ、あの人は電話をしているのだな」という認識が広まったのは、少なくともここ数年のことだろう。

 

ハンズフリーの人」に出くわす場面は日常となったが、僕はいまだに戸惑いというか、ぎこちなさを覚える。時折ニヤニヤしたり、首を振ったりするから一層気味が悪い。両手が開放されることにより、作業効率の向上が見込まれることは頭で理解できるが、それでもなお感じるこのぎこちなさの理由はどこにあるのだろうか。

 

中高生時代、週初めの月曜日に全校集会が開かれていた。みんな行儀よくステージの方に向かって体育座りをして、校長先生のお話や生徒会からの報告を、まだ眠い目をこすりながら聴いていた。でもこれって、よく考えたらすごく変なことだ。人は360度、全方位からの音を聴くことができるのだから、別に横を向こうが後ろを向こうが校長先生のお話は理解できるはずである。「しきたりだから」「先生に怒られるから」と片付けてしまえば簡単だが、どうしてどうして、僕らは当たり前のように前を向いて話を聴いてしまう。

 

これは全校集会に限らない。食卓を囲むときだってそうだ。「エネルギーを補給する」というご飯の機能的側面に限定すれば、食べ物を口に放り込めばそれでよいはずだ。仮に食料が足りてない状況にあれば、他者と向き合うことは食物を奪われる危険を犯すことにもなる。それなのに、僕らは背中合わせではなく、わざわざ向き合って、食卓を囲んでいる。

 

この二つの例から分かることは、人は対面するコミュニケーションを基本としてきたということだ。両者が向かい合って、話を聴き、ご飯を食べる。当たり前のようだが、僕たちは効率性を犠牲にしてまで対面コミュニケーションを選び取ってきたのである。

 

携帯電話を耳にあてがって電話をする人を目にする時、僕らは携帯電話を持つという彼のしぐさから、会話している相手を想起し、頭の中で対面させている。一方ハンズフリーの人たちは、耳にUSBメモリみたいな物体を差し込んでいるだけで、周りから見ると何をしているのか判別できない。それだのに、ときどきニヤニヤしたり、相槌を打っていたりするから、気味が悪いのだ。それは、背中合わせで食卓を囲むときの違和感と僕の中では一致しているのである。